本日ご紹介するのは佐賀出身の偉人、枝吉神陽(えだよししんよう)という人です。
枝吉神陽は「佐賀の吉田松陰」とも呼ばれた方で、彼の生誕地や縁のあるスポットをご紹介していきます。
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神童と呼ばれた幼少期
この像は2018年に行われた明治維新150年の記念イベント「肥前さが幕末維新博覧会」のときに設置された、佐賀を代表する偉人の等身大モニュメントです。
1822年、佐賀藩士で藩校・弘道館の教諭だった枝吉南濠の長男として佐賀城下鬼丸町に生まれました。
佐賀県社会福祉会館の敷地内には、「枝吉神陽生誕地」と記されたプレートが建てられています。
幼少期より神童と呼ばれ、父親の指示で23歳の時に江戸時代、湯島にあった昌平坂学問所に学びに行きました。
江戸幕府直轄の昌平坂学問所では舎長役として活躍。
昌平坂学問所で古事記や日本書紀など、国学が教えられるようになったのは枝吉神陽によるもので、この頃からリーダーとしての才覚を発揮していました。
佐賀藩に戻ったあとは弘道館で教えながら父親の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ、弘道館に付属する神学寮を開校するなど、勤王運動に励みました。
佐嘉神社や佐賀城跡の近くには枝吉が教鞭をとり、多くの偉人を輩出した弘道館の跡地があります。
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「義祭同盟」を結成
枝吉神陽は人格、頭脳とも優れた人物として知られていて、若くして佐賀藩を代表して他国の諸氏との交流し、水戸の藤田東湖と共に「東西の二傑」とも呼ばれていました。
江戸時代の後期になると、黒船来航によって世の中が混乱する中、枝吉神陽は尊王思想を説き、倒幕すら視野に入れた過激な改革派としてリーダー的な存在に。
1850年には、楠木正成をまつる龍造寺八幡宮社(楠神社)にて「義祭同盟」という秘密組織を結成します。
枝吉神陽の考えに共鳴したメンバーには、江藤新平や大隈重信、副島種臣、島義勇、大木喬任など、のちに明治政府で活躍する逸材ばかりでした。
幕末期の佐賀の精神的な柱として存在し、明治時代に活躍する人材を育てることで、明治期に佐賀藩が活躍する基礎をつくったのが枝吉神陽です。
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松蔭本人も認める佐賀の「松田松蔭」
幕末における長州藩の精神的な指導者、吉田松陰はとても有名な存在で、枝吉神陽も「佐賀の松田松蔭」と呼ばれていました。
実際には一度、ホンモノの松陰が佐賀に来たとき、枝吉と会ったことがあります。
その印象は「奇男子」とされ、のちに九州に向かうという友人には、必ず枝吉を訪ねるようにとすすめており、松田松蔭本人も認めるほどの逸材であったことが伺えます。
頭脳だけではなく体力面もすごかった!?
枝吉は残念ながらうしろ姿の肖像画しか残っていませんが、言い伝えによると一見、書生とは思えない体育会系のカラダだったとのこと。
毎日、20里(約80km)を歩いていたほどの健脚家で、昌平坂学問所の時には富士山に下駄で登ったという信じられない話もあります。
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まとめ
いかがでしたでしょうか。幕末から明治という激動の時代に活躍した枝吉神陽。
1862年、コレラに感染して世を去ったとされていて、佐賀市にある高伝寺は鍋島家、龍造家の菩提寺で、枝吉の墓もここにあります。
弟の副島種臣の墓と枝吉の遺徳碑も並んでおり、ともに偲ぶことができます。
従来の枠にとらわれず先見の明をもち、リーダーとしての牽引力をも併せもつ、佐賀のリーダー的な存在でした。
40歳という若さにしてこの世を去りましたが、その志は次の世代に受け継がれ、門下生の活躍へとつながっています。
ぜひ、枝吉神陽の生涯に思いを馳せながら、縁の地に赴いてみてください。
名称: 龍造寺八幡宮 りゅうぞうじはちまんぐう
住所: 佐賀県佐賀市白山1丁目3-2
電話: 0952-23-6049
名称: 高伝寺 こうでんじ
住所: 佐賀県佐賀市本庄町1112-1
電話: 0952-23-6484
時間: 9:00-17:00
駐車場: 無料駐車場あり
高伝寺のページ
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